Basso Continuo's Music Page
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私が合唱の伴奏をしていた時代に取り上げた曲で、 高田三郎作曲の「水のいのち」という曲があります。 誤解を恐れずに申し上げれば、
「合唱をされている方なら誰でもご存じ、 とでもいうべき曲。 逆に、 合唱をされていない方で、 この曲を全曲知っているやつが居たら、 そいつはどこか変なヤツ(^^;)」
というぐらいの(爆) 合唱界でのスタンダードです。
合唱組曲「水のいのち」は全部で5曲。 それぞれは 「雨」 「水たまり」 「川」 「海」 「海よ」 という題名を持ちます。 この題名だけを見ても示唆されるように、 全体は 「空からの降雨」→ 「水たまり」→ 「川となって下る」→ 「海へそそぎ込み、 ひとしきりよどんだあと、 再び天へ上っていく」 という具合に、 水の大循環を題材にしています。 さらにこれに、 人生に関する哲学的な考察の色彩を加えた物です。 私が伴奏を行うに当たって構えたアプローチは 以下のような物でした。
こんな、
いささかけったいなことを考えていたのです。
ところが何と、
大変興味深い事柄を見つけることができました。
題字に
「大発見」
とつけたのは半ば本気です(笑)。
私が見つけたのは、
第一曲『雨』と終曲
『海よ』の不思議な関連についてです。
両者の譜面の一部分を以下に示してみます。 いずれも合唱部分の旋律形を示しましたが、 ピアノの伴奏音形もこの旋律とユニゾンか、 或いは旋律をなぞる形の伴奏になっています。 まず、 第一曲『雨』の旋律の冒頭です。
第一曲『雨』は間断無く静かに降りしきる雨を歌った詩です。 曲の雰囲気もこの歌詞の内容を反映しており、 As-dur(変イ長調)で、 ピアノ伴奏の絶え間ない静かな分散和音を背景に、 最初から最後まで静かに進行していきます。
これに対して、 終曲『海よ』の開始はこうです。
この終曲の冒頭の歌詞には 「芥(あくた)」 「疲れ果てた水」などの単語が見えます。 曲想もこれを反映し、 d-moll(ニ短調)上で半音を主体に不安定な動きです。 この小節以降のフレーズの後半には減七の和音も出現し、 不安定な気分を助長しています。 第一曲とは全く異なる雰囲気です。
ところで、この組曲は「水の循環」を題材にしています。
これを表現する手段は
歌詞にしか与えられていないのでしょうか?
歌詞を持たぬピアノは
歌詞の内容を表現する手がかりはないのでしょうか?
「そうではない」ということに突然気がついたのです。
第一曲「雨」の冒頭旋律のアウフタクトをとり除き、
F-dur(ヘ長調)に移調し、終曲の冒頭と並べてみます。
旋律の中心である奇数小節(黄色で示した部分)を構成する音が 両者で全く同じです。 これは偶然とは思えません。 終曲の冒頭は、実は第1曲の変貌した姿だったのではないでしょうか。
さらに終曲の音符を注意深く見てみると、 後半、 G-dur(ト長調)に転調したところから、 第1曲の音形の逆行形がところどころ目に付きます。 (下の楽譜で、 (A)は第1曲の冒頭、 (B)はそれを逆行させたもの。 (C),(D)は終曲の一部の抜粋ですが、 (B)と同じ音形になっていることがおわかりかと思います。)
終曲には 第1曲の旋律が 変貌を遂げて再帰しているのだと 言うことができるのではないでしょうか。 そして、 このことは 「雨」として天から降り注いできた水が 幾たびの変遷を経て海となる。 すなわち、 「海のうたかたは、 雨の変貌した、 なれの果ての姿」 という、 まさにこの組曲の歌詞全体の構成と 対応するものではないでしょうか。 私は、 作者には終曲に第一曲の変形を再帰させる意図があった と思います。 これは全曲の音楽的統一、 ということと共に、 歌詞の内容と音楽の内容を極めて有機的に結びつける物です。 これが作曲者、 高田三郎の意識的な計算の産物か、 それとも無意識的な物なのかはわかりません。 作曲者にお伺いするしか手がありません。
でも、 歌詞と曲の構成は このように有機的に 結びつけられるものなのですね。 この連関に私は心を動かされました。 そして、 この発見は、 実際の演奏に際しての 有力な手がかりを私に与えてくれました。 「歌詞に頼らず歌詞の内容を表現する」という立場からは、 これはとても有益な收穫だったのです。
ただ残念なことに私がこれに気がついたのは本番三週間前で(笑) 本番の演奏へこの考察を生かし切れたとはいえない(^^;)。 もしこの曲に再び巡り会うチャンスがあった場合、 両者に共通する 「隣り合った三つの半音の動き」を 何とか聴衆の深層へ訴えるような演奏手段を考えると思います。
実は私、 この曲の伴奏をしてから数か月後に 合唱団の伴奏をやめてしまいました。 その兆候はすでにこの曲の伴奏を行っていた当時、 私の内部に発生していました。 合唱伴奏に対する自分の「限界」、 器楽畑から流れた私と、 生粋の合唱一筋の人々との「ギャップ」、 そういったもの徐々に感じはじめていたのです。
「このままではいけない。 私ならではのアプローチをしなければ、 合唱伴奏者としての私の存在意義はなくなってしまう」
等と生意気なことを考えていました。 上に述べた妙な考察も こうした意識から思いめぐらされたものかもしれません。 でも、 こうした私の下らぬ邪推にも、 この曲は十分応えてくれました。 そういった意味でも 「魅力的な」 「演奏しがいのある」 曲だったと思います。 いろいろな意味で、 この「水のいのち」は、 私にとって思い出深い、 私の音楽生活の中での一つの 「節目」 と共に記憶される曲になっています。
※参考資料:高野喜久雄作詞、 高田三郎作曲、 混声合唱組曲「水のいのち」、 河合楽器製作所出版事業部,1974
※文中の楽譜は"MusicTime Deluxe for Windows 3.1 and 95"((C) 1996 Passport Designs Inc.)にて作成したものをビットマップ化したものです。