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クラシックファン、「聴衆」の皆さんも 「勉強」しましょうぜ!(^^;)

(※脚注1)

ある「音楽」が人に感動を与える場合、 その「音楽」のどこに我々は感動するのでしょうか。

いわゆる「演歌」では、 多くの場合、その要素はずばり「歌詞」だと思います。 (試しに、 「演歌」を歌詞無しの鼻歌あるいはスキャットで歌ってみてください。 何にも面白くないどころか、 もし貴重な友人の前でこれを行ったら、 あなたはその 「貴重な友人」 を失うかもしれません(笑))。

一時期日本で大流行した (そしてあっという間に廃れた?) RAP (ラップ) もそうです。 RAPから歌詞を取ったら何が残る?(^^)

RAPほど極端な例でなくとも、 多くの邦楽ポップスでは、 歌詞、 あるいは歌詞の単語が (例えそれが即物的な単語の羅列であったとしても)、 その音楽を惹きつける大きな要素になっているような気がします。

そもそも日本の音楽は伝統的に「声楽曲」が多く、 「純粋な器楽曲」という習慣は少なかったのですね。 (「雅楽」や 「箏曲-六段」 というのは例外中の例外だと思います。) そして、 器楽曲の場合でも、 背後には多くの場合「決まり事」があり、 日本の伝統音楽のファンの人の中では

「こういう旋律が出てきたら、 これはある有名な曲の『雪』の場面を意味する音樂の引用だ。 だから我々はこの旋律を聴くと何となく寒気を感じるのだ」(※脚注2)

ということすらあるぐらいです。

さて、 この文章を今読まれている皆様の大部分は、いわゆる 「クラシック音楽ファン」 だと思います。 我々に最も身近なクラシックの楽器は「ピアノ」です。 (実はこのサイトも「ピアノ」のサイト、 ということになっています。 最近はだいぶ怪しいのですが(笑))。 しかし「ピアノ」は歌詞を発声できません。 他の「楽器」もそうです。 「器楽曲」というのは本質的に、 歌詞に表現を頼るわけにはいかないのです。 では我々は「器楽曲」の何に感動するのでしょう?

いろいろな意見があると思いますが、 私は「楽曲の構造」がその重要な要素の1つであると思います。 演奏家が楽曲構造(楽式・和声進行・対位法・ピアノの音色効果)を把握し、 聴衆にそのすばらしさを、 自らの高水準の技術を用いて披露する。 そして「聴衆」がそれを受け止める・・・ 「演奏会」の成立する一つの重要な要素だと思います。

そこで、アマチュア通奏低音いぢくりまわし屋の私は、 演奏家としては 「ど下手くそ」 なので脇に置いといて(爆) 今回は「聽衆」のほうを話題に採り上げてみます。

まず、 いきなり結論を書くと、 「『聴衆』も、演奏家と同じレベルで勉強しなければならない」 ということになってしまうのです。 「げげっ!」と思われる人も多いかも。 でも色々な音楽に接すれば接するほど、 そう感じる度合いが強くなるのです。 以下、 色んな例を出してみます。

その1、例えば、

「ソナタ形式」を知っている人が、 古典派以降の「ソナタ」 (交響曲、協奏曲、室内楽曲も含む)を聴いて得る感動

は、

「ソナタ形式」を知らない人が、 ソナタを聽いて得る感動

と、 本質的に異なっているはずです。

「フーガ」もそうです。 「フーガ」の何たるかを知らない人がフーガを聴いた場合、 その人の得る感動はおそらく全体のごく僅かの部分だけでしょう。 「『冒頭の単旋律』以降は、 単なるごちゃごちゃした音の集まりにしか聞こえない」 ということすら起こるかもしれません。

上の2つの例は、 まだ比較的「易しい」例です。 では次に、ピアノ弾きにはちょこっと「難しい」例を出します。

次の旋律を聴いても、 多くのクラシックファン、 特に「アマチュアピアノ弾き」には、「何も感じない」という人が多い思います。 (つい最近まで私もそうでした。 もしこの旋律をご存知のかたがいるとしたら、 その人、 多分「カトリック教会の信者のかた」 か 「ルネサンス当たりのア・カペラ合唱に触れた経験をお持ちのかた」 のどちらかだろうな^^;)

[G-G-E-C-D-E-D-C. さて、何の曲でしょう?(G_iE_D.gif, 492Bytes)]

じゃ、 こちらはどうでしょう?

[C-H-C-A-H-G-A- ... (D_I_d_i.gif, 533Bytes)]

「あ、 これ、 『地獄』に関係のある曲だ」 と感じた人は少なくないと思います。 恐らくそう感じた人の多くは、 ベルリオーズ(Hector Berlioz)の 「幻想交響曲(Symphonie Fantastique)」 の最終楽章を思い出した人ではないでしょうか。確かに、 ベルリオーズの幻想交響曲の最終楽章、 主人公が地獄に落ちてしまった場面で、 鐘の音とともに出てくる有名な旋律です。

そして、 これが「怒りの日(Dies Irae )」という、 グレゴリオ聖歌の定旋律であることも、 比較的良く知られています。 ベルリオーズがこの旋律を取りあえげて一挙に有名にしてくれたからです。

もう1つ、特に、「ピアノ弾き」の場合、 ラフマニノフ(Sergei Rachmaninoff)の 「パガニーニの主題による狂詩曲(Paganini Rhapsody)」 も無視できませんが、取り敢えず脇に置いておきます(^^;)。
・・・ほんまにここ、「ピアノのサイト」なんかいな(爆)

・・・閑話休題。実は、 一番最初に示した樂譜もその類(たぐい)なのです。 これは、 グレゴリオ聖歌の"Gloria in excelsis Deo"(天のいと高きところに神の栄光あれ)という意味をもつ 「定旋律」 なのです。 こんな具合

[Gloria in excelsis Deo(天のいと高きところに神の栄光)のグレゴリオ聖歌定旋律 (G_iE_D_w.gif, 684Bytes))

に歌詞が付きます。

「定旋律」・・・すなわち、 歌詞が無くてもこの旋律が登場すればそれは 「天上の神の栄光」 を意味するのです。 たとえ、 歌詞が無くても、 器楽で演奏されても、 です。 そういう約束事なのです。

バロック音楽や古典派中期まではこうした 「約束事」 がたくさん存在しました。 そして、 演奏家だけでなく、 聴衆(当時は、 社会の「上流階級(王侯貴族・聖職者等)」に限られていましたが) も、 そうした「約束事」を知っていました。 それだけの素養を持っていたのです。 ですから、

[G-G-E-C-D-E-D-C. 'Glo-ria in ex-cel-sis De-o(天のいと高きところに神の栄光)'(G_iE_D.gif, 492Bytes)]

を聴けば、 ルネサンス~バロック時代の教養ある人なら「天上の神」を直ちに連想し、 敬虔な気持になり、"Et in terra pax hominibus.(地は善意の人に平和あれ)"と気持が動いたのです。 さらに

[ラメントバス(Lament Bass)の有名な例 (Lament_b.gif, 6.79KB)]

の楽譜の黄色い部分で示した様な「半音階で下降する低音-いわゆる『ラメントバス(Lament Bass)』」(※脚注3)が出てくると、 バロック音楽の時代の教養ある聴衆は 「悲痛な気持が現れている」 と直ちに察したのです。

音楽がある種の「具体的な意味を持つ象徴」として 機能していたともいえます。 最初のほうで述べた日本の伝統音楽と同じ様な 「約束事」 が、 かつての西洋音楽でもたくさん存在し、 演奏家も聴衆もその「約束事」を「暗黙の了解」 として音楽に接していたのです。

「こうした『約束事』を知らない人」 が 「『約束事』を前提にして書かれた曲」 を聴いて得られるものは、 おそらく作曲家の伝えたかった物と大きく異なってしまうでしょう。 ある曲の評価基準は、 その音楽の誕生した場所・ その音楽の誕生した時代に大きく依存するからです。

そんなわけなので

「音楽は世界共通の言語」
「真の名作は時代・場所を超えて残る」

という文句、 近頃の私はこうした文句を「話半分」に聞くことにしています(^^;)。

だめ押しに、 もう1つ例を出しましょう。 私のサイトの「グローリア日記2001」の、 例えば、 2月27日の部分をご覧いただきたい。 ここで登場する"Michael Haydn"(ミヒャエル・ハイドン:(1737-1806) 100曲を超える交響曲をのこした有名なJoseph Haydn(ヨゼフ・ハイドン)の弟です。 以下"M.ハイドンと略記) の作曲した、 "Requiem"(レクイエム:死者のためのミサ曲("Missa pro defunctis")ともいう)において、 音符・・・旋律や楽器の使用法等・・・が、 ラテン語の歌詞との間に、 かなり強い相関を持っていることがお分かりいただけると思います。 あきらかにM.ハイドンは歌詞の内容を音楽で表現することを意図した のだと思います。 さらに、 比較のためにたびたび引用している 「W.A.モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)のレクイエム("Requiem KV626")」 では、 これがもっとあからさまに、 かつ、 より洗練された形で表出されているのも ご覽いただけると思います。

両者とも、 歌詞を理解すればするほど、 音楽がいかに歌詞の内容を見事に反映しているか、 作曲者が歌詞を音楽で表現するためにどれほど工夫 ・ 努力したのかを察することができるようになります。

恐らく、 こうした曲が作曲された当時のカトリック教会(Catholic Church)関係の人々は、 この歌詞を理解し、 歌詞の内容を的確に表現した音楽に感動したのではないかと思います。

ところが、 今の我々がこうした感動を得るためには、 「ラテン語等の知識」、 あるいは「キリスト教の知識」が必要です。 これは、 多くの場合、 我々の普段の日常生活とは無関係な物で、 「勉強」 「研究」 しなければ得ることができない物です。

従って、 歌詞の意味を全く分からずに漠然と音楽を聴いている我々は、 例えば、 「モーツァルトのレクイエム KV626の『キリエ(Kyrie)』」

[W.A.モーツァルトの「レクイエム(KV626)」の「Kyrie'(キリエ)」冒頭 (WAM_K_C.gif, 6.19KB)]

を聴いても、 単に「なにやら複雑な、恐ろしげな迫力を持つ曲」 と捉えるだけかも知れません。 ちょっと「楽式」「音楽理論」の素養のある人なら、 「素晴らしい迫力と緊密な構成を持った二重フーガ」 として聴くでしょう。 しかしそのレベルまでしか聴くことができない。 「それだけで十分だ」という人もいるかもしれません。 しかし、歌詞の意味が理解できる人は、 例えば、こんな風に捉えるかも知れません。

「"Kyrie eleison"(主よ、憐れみ給え)と、 "Christe eleison"(キリストよ、憐れみ給え)という歌詞を組み合わせることによって『主』と『キリスト』を対峙させ、 『二重フーガ』という手法を用いてこの両者を緊密に関連づけ、歌詞の内容にふさわしい雰囲気を作り出している」

これこそが、この曲を作ったときのモーツァルトの意図ではないでしょうか。 そして、 この「モーツァルトの意図」は、 我々にはほとんど伝わってない、 ということになりはしないでしょうか?

「そんなこと、普通の人には分かんないよ」

そうです、その通りです。 現代の日本で普通に生活している我々には分からないのです。 しかし、この曲の場合、 この「現代の日本で普通に暮らす人が分からない」部分こそが、 モーツァルトが一番聴衆に伝えたかった部分なのではないでしょうか。

クラシック音楽のプロの演奏家、 或いはその予備軍(?)の人々は、 ある音楽を演奏会の俎上にのせる前に、

といったものを必死に研究 ・ 勉強しています(しているはずです)。 特に、「古い時代の音楽」ほど、「楽譜自身」の持つ情報量は減り、 楽譜に書かれていない「暗黙の了解」「約束事」の理解がより多く必要になります。 そうした「楽譜に書かれていない情報」までをも必死に研究し、 その成果を我々聴衆に共感させるのが 「演奏会」 の場ではないでしょうか? そのとき我々聴衆が何の予備知識を持たずにいたら? 作曲者の意図、 演奏家の研究成果の大半は 我々に共鳴されないまま終わってしまうでしょう。

ちなみに、 これと同じ様な、しかしある意味で「逆」の例を、 「日本の現代合唱曲」で見ることができます。 私は「音楽ひとりごと」 の第5番目の文章でその例をとりあげました。 作曲者「高田三郎」が歌詞をどのように消化し、 音符に反映させているかがご覧いただけます。 (※脚注4)

もう一つ忘れてはならないことは、 ほとんどの作曲家は自分の曲のほとんどを 「当時の自分のまわりにいる聴衆に感動を与えるため」 に作曲している、ということです (最晩年のバッハや 最晩年のベートーヴェンのような例外はありますが (※脚注5))。 モーツァルトが交響曲を作ったとき、 その曲はその時代のウィーンの人々に感動 ・ 興奮を与えるためにつくられた 「時代の最先端を行く現代音楽」 だったのです。 モーツァルトは、決して

「20世紀末から21世紀初頭にかけての時代の極東の『ある島国』の人々」

のために作曲したのではないのです。 「音楽ひとりごと」 の第5番目の文章で採り上げた「高田三郎」が、 我々-20世紀以降生まれで、 日本語の共通語を解し、 日本人的な感覚を持つ人々- のために「水のいのち」を作曲したのと同様、 モーツァルトは、 当時(18世紀末)のヨーロッパの人々のために作曲したのです。 高田三郎の合唱曲 「水のいのち」は、 歌詞が「日本語の現代文」で、 日本的な背景を前提にしているので、 我々「日本人」、 あるいは「日本的な日常生活を送っている人」は何の特別な知識もなく臨むことができる。 しかしモーツァルトのレクイエム(KV 626)の場合、 もし、 作曲者の意図をより多く受け取ろうとするならば、 我々は「18世紀末のヨーロッパのカトリック教会関係の人々」 の立場に立たなければならないのです。

これ、アマチュアのクラシック音楽愛好家であるである私をも含めて、 我々にとってはとても大きな、 そして、 困難な課題です。 しかし、 作曲家や演奏家の意図をより多くみ取ろうと決意した場合、 あるいは作曲家や演奏家が自らの意図をできるだけ多く伝えたいと思った場合、 我々「聴衆」もまた「演奏家」「作曲家」達と同様に、 「勉強」「研究」をしなければならないのです。

・・・というわけなのですが、 ひとことで「クラシック音楽」といっても、

「15世紀の『ルネサンス音楽』から、 20世紀末~21世紀初頭の『現代音楽』まで一挙に扱う」

のは私の手に余る行為・・・よって、 私は、 とりあえずのターゲットを、 ヨーロッパの封建体制が崩壊する直前、 あるいは崩壊する重要な時期・・・ 「後期バロック」 と 「古典派の一部」 に絞ることにします。 よって、 ロマン派、 例えば

F.Chopin(チョピン☆\(--;)・・・違う、 ショパン!)」

などという怪しげなジャンルには、 まかり間違っても手を出さないのでありますっ!
どーだ!この完璧な理論武装☆\(--;)アホカ




※脚注1(謝辞):本記事を書くにあたって、 geoさんのサイト(※現在はこのサイトは存在しません)の 「掲示板」に私が記した文章の大部分を利用しております。 修正転載を許可いただいたgeoさんにこの場をお借りして御礼申し上げます。 (というわけで、この丸印●を 選択すると冒頭の部分に戻ります(^^))

※脚注2(参考文献)「金田一春彦『日本人の言語表現』 (講談社現代新書410、1975)」 (・・・というわけで、この丸印●を 選択すると読みかけの部分に戻ります(^^))

※脚注3: こうした「半音階で下降する低音」を"Lament Bass":(ラメント・バス、「悲痛な低音」の意味)と呼びます。ラメントバスの例として示した2つの楽譜の内、上の楽譜はピアノをある程度弾く人なら必ず経験する、J.S.バッハの「シンフォニア第9番」。黄色の部分が「ラメントバス」です。下の楽譜もこれまたバッハの作品で、「ロ短調ミサ」の「クルチフィクスス(Crucifixus:『(キリストが)十字架に貼り付けられ』という意味です。「悲痛な感情の象徴」として半音階下降低音(ラメントバス)が効果的に用いられている有名な例です。 (・・・というわけで、 この丸印●を 選択すると読みかけの部分に戻ります(^^))

※脚注4: 具体的な歌詞の内容は、 「雨→水たまり→川→海→再び水蒸気として空へ登っていく」 という内容です。
「雨の降らない、 国土のほとんどが砂漠という人々」 や 「海の無い内陸の国に暮らしている人々」には、 この歌詞の意味内容を把握するのは困難ではないでしょうか。
「逆の例」と言ったのは、「日本的な感覚」を持っていないと この曲を作者の意図通りに味わうことはできないかもしれない、 という意味です (・・・というわけで、 この丸印●を 選択すると読みかけの部分に戻ります(^^))

※脚注5: J.S.バッハの「フーガの技法」は未だに使用楽器がはっきりしていないぐらいだし、 「ロ短調ミサ」はバッハの生前に全曲演奏された記録が残っていない。 そもそもプロテスタント教徒のバッハがカトリックの物である 「ラテン語のミサの歌詞」 に曲を付けたこと自体が異常です。 バッハは、 「ロ短調ミサ」で 「自分の声楽音楽技術の総決算」を狙い、 自分のために作曲したのではないでしょうか。
一方、 「第九(合唱付き交響曲)」 を作曲した後の晩年のベートーヴェンは、 「これからは自分の楽しみのために音楽を書きたい」 と知人に語ったと言われ、 実際、 現代人にも理解困難な(^^;) 弦楽四重奏をたくさん作曲しました。
(もし「現代人にも理解困難なベートーヴェンの弦楽四重奏、 聴いてみたい」というかたが居られましたら、 こちらに、『理解困難』の代表作(^^;)がありますので、 よろしかったらどうぞお聴きください。 念のため申し上げますとこれら全て、 「傑作」とされているようです・・・ というわけで、 この丸印●を選択すると 読みかけの部分に戻ります(^^))

※脚注6:文中の楽譜は"MusicTime Deluxe for Windows 3.1 and 95"((C) 1996 Passport Designs Inc.)にて作成したものをビットマップ化したものです。

(2001.Mar.24)

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