Basso Continuo's Music Page
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[Japanese / Nihongo]
[Korean / Han-gug-eo]
私は、今、悩んでいることがあります。それは、
「現在の私の音楽活動は『通奏低音だけ』と言うことができる。 この状態を続けるのか?それとも、ソロピアノ活動を再開するのか?」
ということです。
事の発端を話しましょう。2002年4月14日、「岐阜市」というところで、 小さなコンサートが開催されました。このコンサートは、 「春の便り-アマチュアピアニストたちによるコンサート」と名付けられ、 私の「ネット親舊」であり、岐阜の近くに住んでいるEさんが主宰し、 昨年から始まったソロピアノのコンサートです。 (アマチュアといえども、曲目や出演者を見る限り、水準は相当高そうです)
昨年も今年も、私は、この演奏会を聽けませんでした。 しかし、2002年4月29日に、岐阜市内で演奏会の首謀者・・・もとい、主宰者Eさんと、 スタッフの1人だったTさん、 そして、聽衆だったPさん、それに私を加えての4人で「飲み会」を催す機会があり、 演奏会の様子を伺い知る機会を得ました。 この宴席はなぜかEさんとTさんの2人が会話の中心になり、 私はもっぱら聞き役に回っていたのです。
そしてそこで、私は、
「Eさんが演奏したモーツァルトのソナタKV332で、 第2樂章の3~4小節にTさんが非常に感銘を受けた」
ということを知りました。一方で、Eさん自身もこのKV332の出来に非常に満足していることも知りました。
更に、この宴会でEさんの話を聞き、更に演奏会後のEさんのウェブサイトの掲示板を読んだ結果、 1つだけ想像できることが出てきました。それを書いてみたいと思います。
とは言ってもモーツァルトのKV332といわれても「ああ、あの曲か!」とくるほど私はモーツァルトには詳しくなく、宴会当日は話題についていくこ とができなかった(笑)。 数日後、やっとの思いで実家の納屋から全音楽譜出版社のモーツァルトソナタアルバムを「発掘」し、どんな作品なのかチェックしてみたのです。
以下が、宴席で話題になった第2樂章の冒頭です。(なお、樂譜は ウィーン原典版によるものです。)
テンポはAdagio。決して複雑な音型の音樂ではない。音符をなぞるだけであれば小学生でも可能かもしれない。右手の旋律のリズムが若干複雑だが、決し て弾けないことはないでしょう。しかし、この曲は本当にそのように簡単な物だろうか。ここで左手に注目しましょう。左手のパターンは、いわゆる典型的な「アルベルティ・バス (Alberti Bass)」という分散和音型です。これはそれぞれ「密集和音」(分散和音ではない和音)に還元することができます。(下図参照)
これに従い、先ほどの冒頭4小節を「密集和音」として記載し、スコア(総譜)にした物が下の樂譜です。
まるで弦楽四重奏のような楽譜の第3,4小節目に、無数の前打音と解決進行が存在しています。 特に3小節目の内声部に出現する解決進行は、 一瞬、ハ短調への転調をもたらし、曲に緊張を与える。 これを受け継ぐのが、4小節目の旋律線です。 これは3小節目の内声部と逆の動きをすることで、 3小節で現れた緊張を弛緩させ、 最後は「お決まりのパターン」・・・「『四六の和音』から『属和音』への進行」で、この四小節を半終止させます。
弦樂四重奏的な世界をたった一人で作ることを企てる・・・改めて「ピアノ曲というのはものすごいジャンルだな」と感じます。 無論、この曲の場合、それが成功するか否かは、演奏者がこうした「背後の和音の進行」を認識し、それが音として具体化できることが必要です。 ちなみにEさんは宴席や掲示板(BBS)で、しれっとした顏つきで、
「音がすっとホールの空気に広がる感じを、一音一音、味わいながら弾くことができた」
「自分の音を自分で受け入れることができた」
などとヌカして(失礼!)おられましたが、Eさんが、限られた時間の中で、本能的に上記のプロセス(これがすべてではありません。 もっとたくさんの要素を見つけたのでしょう)を成就する方向へ向いていたのだろう、 そしてそれが演奏会本番で「成功」したのだろう、 と想像します。
こうしたことを無意識の下で行うことができる人を、 おそらく「音樂に対するある種の『體感』を持った人」と言うのでしょう。 (「音楽に対する『體感』」とは、Tさんの言い廻しです。) その意味において、 私は他のアマチュアピアノ弾きよりも若干「體感」が低いようだ。 実家にあるピアノで上記冒頭四小節を試弾してみました。 上で述べたことをどのようにすれば成就できるか、 Eさんは「ペダルを約1/3押さえる」「フィンガーペダル(前の音が切れる前に次の音を彈く、一種のオーバーレガート奏法)」 などを用いたと言います。私も試してみました。しかしEさんが本番で感じた感覚の1%も体驗できない。 これは一筋縄ではいかない。 十数回トライした後、 私は諦めました。
しかし、先日の宴会でEさんとTさんの話を聞いて以来、 「一人でアンサンブルを行う楽器」としての「ピアノ」の魅力が再び蘇ってきているのを感じます。 チェンバロで合奏に加わるのとは全く別な感覚です。 しかし、私はここ2年ほどまじめにピアノを触っていません。2年のブランクを取り戻せるのか、 何よりも目の前にぶら下がっている「Bachのロ短調ミサの通奏低音」と 両立できるのか(※脚注1)。 ピアノとチェンバロはともに「鍵盤楽器」でありながら、 奏法が根本的に異なります。ピアノの練習はチェンバロの演奏技術をねじ曲げる要素があり、一方、 チェンバロの練習はピアノの演奏技術を退化させる要素を持っています。 両立はたやすいこととは思われません。 そもそも、「ロ短調ミサ」は、「死ぬまでに1度は通奏低音を担当したい」とまで常々思っていた曲。 大げさに言えば、 私はこの曲に「命を懸けている」のです(※脚注2)。 他のジャンルへ目を向ける余裕はほとんど無いように思われます。
でも、チェンバロ通奏低音に「転向」して以降、 「もう一度『ソロピアニスト』としてステージに立ってみたい」 という願望がこれほど強くなったことはかつては無かった。 この願望が成就される時は訪れるのだろうか?日常生活の中での少ない時間をにらみつつの試行錯誤が、 私の中で始まったのかもしれません。
(実家に置いてあるアップライトピアノ(YAMAHA製)と、私が自宅から帰省時に持ち込んだチェンバロ。ピアノは私が実家に帰省しているとき以外はほとんど誰も触らない)
(2002年5月5日,実家にて撮影)
※脚注1:原典版の楽譜を提供してくださったHさん、どうもありがとう御座いました・・・というわけで、本 エッセイの読みかけの部分に戻るには、この丸印●を選択してください
※脚注1:「グローリア日記2002」もご覧ください。本エッセイの読みかけの部分に戻るには、この丸印●を選択してください
※脚注2:これは本当です。バッハの「ロ短調ミサ」は、その楽譜を眺めているだけで 疲労感を感じることがあります。ましてやこの曲を通奏低音奏者として「仕切る」・・・ 神經がどれほどすり減ることになるのか、鬱病患者の私にとっては危険なことなのかも(苦笑) ・・・というわけで、この丸印●を 選択すると読みかけの部分に戻ります(^^)
※脚注3:本記事を書くに際し、2002年4月29日、および、 それ以降のEさん、Tさん、 Pさんとの各種のコミュニケーションを全面的に参考(一部はそのまま引用)させていただきました。 この場を借りて3人に御礼申し上げます。